熱血硬派日本史

古代〜現代までの「歴史にまつわるものや人物全般」について紹介します

【「鬼」と呼ばれた男の素顔】島津義弘:戦場で鬼神と化し、家臣に愛された人柄

戦場で馬に乗る島津義弘

「鬼島津」の異名を持つ島津義弘(しまづ よしひろ)。

その名は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、敵軍から恐れられた武将の一人として知られています。

特に、関ヶ原の戦いで見せた敵中突破は、歴史上でも稀に見る壮絶な戦いとして語り継がれています。

しかし、「鬼」と呼ばれた男には、戦場を離れたもう一つの顔がありました。

ここでは、戦場で鬼神と化した義弘の武勇と、家臣から深く愛された温かい素顔に迫ります。


 

戦場で鬼神と化した男

島津の退き口

島津義弘の武勇を語る上で欠かせないのが、文禄・慶長の役、特に泗川の戦い(しせんのたたかい)です。

彼はわずか7千の兵で、明・朝鮮連合軍の約4万の大軍を相手に大勝を収めました。

これは、敵の首を3万8千も討ち取ったと言われるほどの圧倒的な勝利でした。

この戦いで見せた勇猛さから、明軍は義弘のことを「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼び、恐れるようになりました。

そして、その武勇を決定づけたのが、関ヶ原の戦いでの「島津の退き口(しまづののきぐち)」です。

西軍として参戦しながら、本戦では傍観を決め込んでいた島津軍。

敗戦濃厚な状況で、義弘は退却を決意します。

しかしその方法は、退路を確保して逃げるのではなく、なんと徳川家康の本陣近くを突破して伊勢方面へ抜けるという、常識外れの選択でした。

この無謀ともいえる退却戦で、島津軍は多くの犠牲を出しながらも、徳川家康の重臣・井伊直政に重症を負わせるなど、壮絶な戦いを繰り広げました。

この壮絶な退却戦は、義弘が戦場においていかに冷徹で、大胆不敵な判断を下す「鬼」であったかを示しています。


 

家臣に愛された温かい素顔

家臣団から慕われる島津義弘

義弘の魅力は、それだけではありません。

彼は、家臣や領民を深く思いやる人物でもありました。

  • 家臣との強い絆: 家臣に子どもが産まれると、屋敷に招いて祝っていたといいます。また、兵と一緒になって囲炉裏で暖をとり、夜間の見回りをしていたためか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していたところ、島津軍には一人も出なかったと伝えられています。この義弘の人柄が、家臣たちが命を懸けて彼に尽くす原動力となったのです。

  • 文化人としての側面: 義弘は、茶の湯を愛する文化人でもありました。戦場での激しい気性とは裏腹に、茶室では静かに茶を点て、家臣や客人と心を通わせる時間を大切にしました。これは、彼の内面の豊かさを示すエピソードと言えるでしょう。

  • 敵将への温情:敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵と味方の将兵の供養塔を建設しています。


 

まとめ

 

戦場で鬼神と化し、敵に恐れられた島津義弘。

その一方で、家臣や領民を深く思いやり、文化を愛する温かい心の持ち主でもありました。

彼の生涯は、武勇と人徳という、一見相反する二つの要素が共存し、強烈な個性を作り上げた稀有な例と言えるでしょう。

「鬼島津」の異名は、彼の武勇を称えるものですが、その強さの根底には、家臣たちとの固い絆があったことを忘れてはなりません。

 

天下に轟いておったその強さの裏には、家臣一人ひとりを大切にする深い情があった。
鬼と畏れられながら、人として慕われた。誠に稀有な御方でござるな。